大判例

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大阪地方裁判所 昭和34年(わ)2764号 判決

被告人 岩崎治一郎

明三二・一〇・三生 無職

杉山志づ

明三六・六・一生 無職

主文

被告人岩崎治一郎、同杉山志づを各無期懲役に処する。

理由

(犯行に至るまでの被告人らの経歴)

被告人岩崎治一郎は、本籍地において岩崎勇松、同テリの間に長男として生れたが、幼少の頃両親が離婚したため父親と生別し、ついで母親も山川某と再婚したため、農業を営む母方の祖父母の手で弟と共に養育され、高等小学校を二年の途中で退学して家業の手伝をしていた。そうして大正六年(一七歳の時)高橋ノブと結婚し、その後同女との間に一男二女をもうけたが、その間大正八年に舞鶴海兵団へ入団し、二年半程して退団した。ところが、海兵団入団中に祖父が死亡し、一方、同被告人の家へ帰つて来ていた母親テリが右山川と死別したため料理屋を始めようとし、祖母もこれに賛成したので、同被告人としても止むなく祖父から相続した農地の大半を売却し、その代金を母親の営業資金に充て、これがため同被告人は自作農から小作農に転落し、更にこれに対して妻ノブの実家から苦情が出る等のことから家庭内にいざこざが絶えなくなつた。それで同被告人も家業を継続する意欲を失い、二五歳の頃妻ノブと離婚し、後事を弟に託して単身家を離れ、新潟市、桐生市等で人夫、店員等をして働き、その後一旦家へ戻つたが、間もなく再び家を出て、埼玉県川口市の土木建築請負業者に雇われ、土工として四、五年働いて兄貴分となり、以後、建築の下請業者として名古屋市、岐阜県下、石川県下等各地を転々としながら仕事をしていた。そうして昭和一六年頃、戦争のため土木建築が統制されるようになつたので、左官の「こね屋」に転業し、静岡県下で働くうち、昭和一八年には被告人杉山と内縁関係を結び、同棲するに至つたが、昭和一九年三月頃、大阪府北河内郡住道町(現在、大東市内)所在の松下航空機株式会社の建築工事場で働くため、被告人杉山及びその娘つぎ子を伴い、静岡県下から同工事場の飯場に移り住んだ。ところが戦争の激化で人手や資材が不足したため工事が進まず、左官の仕事も出来ない状態が続いたので、同年一〇月頃右工事場の仕事もやめ、その後附近を転々としたうえ昭和二〇年二月頃には右住道町大字下三箇九〇〇番地に住居を得て定住するに至つたが、右工事場をやめてからは時々静岡県下へ出稼ぎに行つたほか、これという仕事をしないままに終戦を迎え、またつぎ子は間もなく水戸市へ働きに行つた。かくて終戦後は、被告人岩崎は仕事に就く意欲を欠いて徒食し、被告人ら夫婦はそれまでの稼ぎで貯えた僅かな金や手持の衣類を売払つた金で漸く暮していたが、次第に生活に窮するようになつたので、翌二一年初め頃から仕事を探し求めたけれども見つからず、それでいわゆる闇物資のブローカーになろうと試みたりもしたが成功しなかつたので、どうして生計を立てたらよいか迷つていた。

被告人杉山志づは、山梨県南都留郡において樵をしていた杉山房吉とその妻ヤスとの間に長女として生れ、九歳の頃父親が病気になつたため両親と共に清水市に移り、小学校を三年で中途退学した後、静岡県下の各地で子守、女工、旅館の女中などをして働いていたが、大正一一年(一九歳の時)大石新八と内縁関係を結び、翌々年長女つぎ子を出産した。しかしその後間もなく右大石と別れ、手内職などをしていたが、父親が病臥していたので生活に困り、大正一五年から約四年間娼妓として働き、その後一年余りは寿司屋の女中奉公をし、そのうち母親も病気になつたため再び娼妓となつて二年位働き、それ以後は寿司屋で働くかたわら街頭で玩具等を売つて暮していた。そうして昭和一五年には、兵隊の慰問婦としてマーシヤル群島のヤール島へ行つたが、翌年帰国し、その後又寿司屋で働いたり、夜店を出したりして暮すうち、昭和一八年被告人岩崎と内縁関係を結び、以後同人と生活を共にして上記のような経過で住道町に居住するに至つた。

(罪となるべき事実)

被告人両名は、大阪府北河内郡住道町大字下三箇九〇〇番地(現在、大東市大字三箇九〇〇番地)に居住し、終戦後収入もなく暮していたが、昭和二一年春頃になつても、被告人岩崎の本来の職業である左官や土木建築の仕事はもとより、他にも適当な生活手段が見出だせず、その間にいわゆる売り食いも次第に限度に来ていたところ、

第一、被告人岩崎は、当時における社会秩序の混乱を見るにつけても、詐欺等の不法手段によつてでも一挙に大金を掴みたいと考え、その計画を立てたりするようになつていたが、同年六月頃、たまたまラジオのニユースで、昭和一九年頃四国か和歌山方面の人が五、六万円の現金を持つて神戸方面へ物資を買いに行くと言つて家を出たまま帰つて来ず行方不明のままである旨を聞いたことなどが契機となつて、現金を持つている人間を自宅に誘い込んだうえ殺害してその所持金を奪おうと考えるに至り、同月頃、被告人杉山に対し、「この節尋常な手段では金を手に入れることはできないからモンサントサツカリン(以下、単にモンサントと略記する)等の品物を取引すると言つて客を騙して自宅に誘い込み、殺して金を取ろう。死体は裏庭に埋めておけば世間に判らないで済む。」などと云つて相談を持ちかけ、被告人杉山もこれを承諾して、ここに被告人両名は協力して右のような計画の実現を企てその準備としてモンサントのいわゆる闇値を調べたりなどしていた。ところが同年七月に入つて被告人らはますます金に窮して来たので、いよいよ右の計画を実行することに決め、相談の結果、被告人杉山が適当な相手を探し、三万円相当のモンサントを売ると騙して被告人らの自宅へ誘い込む役を引受けることになつた。そこで被告人杉山は大阪市北区曽根崎方面のいわゆる闇市で相手を探すうち、同月一四日頃、同区曽根崎上一丁目通称お初天神境内で乾物店を開いていた和田五郎(当時四五年)に目をつけ、話しかけたものの、その日はどうしても同人を誘う決心がつかず、そのまま取引の話もせずに帰宅したが、その後再び右和田を誘おうとの決意を固め、同月一六日再度右和田の店へ同人を訪れたうえ、「主人がモンサントを三万円分お世話できる。お金を持つて私の家まで来て貰えば品物をお渡しする。」と詐り、話し掛けたところ、和田も右の言葉を信じ、その取引に乗り気になつたので、同人との間に、その翌日同人が現金を用意して杉山と共に被告人方へ赴くことを約束して別れ、帰宅後被告人岩崎に対し以上の首尾を告げ、ここに被告人両名は上記の相談に基き、右和田を殺害してその所持する金品を奪つたうえ、その死体を被告人方裏庭へ埋めて遺棄すべく共謀を遂げた。かくて翌一七日午前一〇時頃、被告人杉山は右和田の店に同人を訪れ、直ちに同人と同道し、途中モンサント買入代金の一部を同人が調達するため野村銀行梅田支店に立ち寄つた後、午前一二時頃同人を前記被告人方へ案内し、同家奥六畳の間に通した。そして被告人岩崎が右和田の応待にあたり、しばらくモンサントの取引の話などをした後、和田に対し、右取引の契約書を書いてくれと言つて紙片と万年筆を渡し、同人が右契約書を書こうとして畳の上にかがみ込んだ隙をうかがい、同被告人において右和田に跳びかかり、殺意を以て右腕を和田の頸に廻して締めつけると共に、左手で同人の喉仏の辺を強く押さえ、更に倒れた同人の上に乗りかかつてそのまま頸を締め続け、ついで同家縁側の手洗石横に置いてあつた左官用の掛矢を取り出してこれで同人の頭部等を殴打し、そのうえ、手近にあつた真田打紐(昭和三五年裁領第三〇号の一二)を同人の頸に巻きつけて固く結び、よつて同人をして即時同所において頸部絞搾により窒息死させたうえ、同人がモンサント代金として所持していた同人所有の現金三万円を強取し、更らに右殺害後直ちに被告人岩崎において、スコツプで自宅裏庭北西隈に穴を堀り、その中に右和田の死体を埋めて遺棄し、

第二、被告人両名は上記犯行の後も徒食を続けていたが、同年一〇月頃、被告人岩崎は、かねて知り合つた大阪市北区浮田町三一番地に居住する中西信隆に、ガソリンのような物なら自分が売れ口を探してあげられる、と言われたところから、闇ガソリンの取引をすると騙して前回の犯行と同様の方法により金品を奪い、自己の闇商売の資本にしようと考え、その頃右中西に対し、「旧日本軍のガソリンをドラム罐に五〇本位持つている者が居り、一本八、〇〇〇円位で売ると言つているから買手を探して貰いたい。」と詐つて右中西を信用させ、一方、被告人杉山に対しては、同じ頃、今度はガソリンでまとまつた儲けをしようと計らい、これにより被告人両名は暗黙のうちに前回同様の犯行を繰返えすべく互いに意を通じた。そうして同年一二月二五日頃、被告人岩崎は右中西の紹介で藤田繁郎(当時三〇年)を知り、以後同人と上記ガソリンの取引について折衝し、右藤田は更に知人の松近喜久馬(当時三五年)に右取引の話を伝えて、同人に右ガソリンを買うよう勧めていたところ、同月二七日、被告人岩崎と右藤田との間で、右ガソリンを右松近が買取る話が決まり、翌日藤田と松近の両名が買入代金を携え被告人方へ赴いたうえ、被告人の側で両名を現物のある場所へ案内して現物を引渡す約束になつたので、被告人岩崎は同日帰宅後、被告人杉山に対し、「明日ガソリンの客を連れて来るが、二人一緒に来るからお前は客の一人をしばらくの間外へ連れ出せ。その間に他の一人を殺すことにする。」と、告げてその手筈を定め、ここに被告人両名は前回の和田五郎に対する犯行と同様に右藤田及び松近を殺害したうえその所持する金品を奪い、その死体を遺棄すべく共謀を遂げた。かくて翌二八日午前一一時頃、被告人岩崎は、上記中西方で右藤田及び松近と落ち合つたうえ、同日正午過ぎ頃右両名を前記被告人方へ連れ込み、奥六畳の間へ通したが、そこで右両名に対し、「こんな取引だから、あなた方二人で行くとガソリンの持主に対して悪いから一人は席を外して欲しい。」と詐り、要求したところ、右両名が相談した結果、藤田がその場に残ることになり、松近は買い物に行くと言つたので、被告人岩崎はかねての打合せどおり被告人杉山に右松近の案内を命じて二人を外出させた。その後、被告人岩崎は右藤田に対し、ガソリンの取引について契約書を書いてくれと言つて紙片と万年筆を渡し、同人が畳の上にかがんで右契約書を書き始めた隙をうかがい、同家縁側の手洗右の横に置いてあつた前記の掛矢を取り出し、殺意を以てこれで同人の頭部を一回殴打し、昏倒した同人の体を直ちに同家裏の縁の下に隠したうえ、右掛矢を元の位置に戻すなどして室内の犯行の形跡を除去し、間もなく右頭部打撲に基く脳震盪により同人を同家裏庭において死亡させた。一方、被告人杉山はこの間右松近と共に附近のぜんざい屋に入り、同人と世間話等をしながら二五分位の時間を過し、右藤田に対する犯行が終了した頃を見計らつて右松近と共に帰宅して再び右六畳の間へ松近を通した。そこで被告人岩崎は、右松近に対し、「ガソリンの持主が来たが、藤田が金を持つていないので、品物を全部渡すわけにはいかないから席を変えて話し合おうと藤田を連れて出て行つた。すぐ帰つて来ると思うが、持つて来た金額だけの契約書を書いておくようにと言つて出て行つたから契約書を書いて貰いたい。」と詐り、藤田の場合と同様その場で契約書を書かせ、その隙に又も上記掛矢を取り出し、殺意を以てこれで同人の頭部をめがけて殴りつけたがうまく当らず、同人が倒れてもがいたので、直ちに跳びかかつて手で同人の頸を締め、更に手近にあつた繩のような物を同人の頸に巻いて締めつけ、よつて即時同所において頸部絞搾により同人を窒息死させたうえ、同人が所持していた同人所有の現金二万円及び中古腕時計一箇を強取し、更に引続き被告人岩崎において、同家裏庭の東北隅にスコツプで穴を堀り、右藤田及び松近の死体を順次その中に埋め、以て両名の死体を遺棄し、

第三、右犯行の後も被告人両名は格別の仕事もせずに暮していたが、昭和二二年三月頃、今度は被告人杉山から被告人岩崎に対し、再びモンサントの取引をするように装い前二回同様の方法により金品を強奪しようと相談を持ちかけ、被告人岩崎もこれを承諾し、ここに被告人杉山において相手を探すことに決め、その後同被告人が神戸市三宮方面の闇市等で適当な相手を探す一方、犯行に際して相手を油断さるため、被告人岩崎において木の空箱を菰で包んだ梱包一筒(昭和三五年裁領第三〇号の二)を作り、これをモンサントの入つている梱包に見せかけることにするなど、犯行の準備を整えた。被告人杉山は、同年四月半ば過ぎ頃、松本一郎を介して名村五三六(当時二一年位)と知り合い、同人に対し、「主人が進駐軍の倉庫係をしているのでモンサントを一二万円分位流すことができるのだが、買手を探している。初めは内金として五万円貰い、残金は現品引換でよい。」と詐り、話を持ちかけたところ、名村もこれを信用して右モンサントを買う気になり、その翌々日現金を用意して国電三宮駅で被告人杉山と待ち合せたうえ、被告人方へ行くことを約束するに至つた。そこで被告人杉山は帰宅後被告人岩崎に以上の次第を告げ、ここに被告人両名は前二回同様の方法により右名村を殺害してその所持する金品を奪つたうえ、同人の死体を遺棄すべく共謀を遂げたが、更に同人に一〇万円位の現金を持参させようと相談の末、被告人杉山は、翌々日右名村に会つた際、内金を一〇万五千円にして欲しいと要求し、同人もこれを承諾したので、更にその翌々日頃の同月二二日に右内金を用意のうえ、再び右三宮駅で会うことを約せしめた。かくて同日午前一一時頃、被告人杉山は約束に従つて三宮駅において右名村と会い、同人を伴つて同日午後二時頃前記被告人方に到着したので、被告人岩崎は同家奥六畳の間において右名村とモンサントの取引について話し、上記の梱包をモンサントの見本だと詐つて同人に示すなどして同人を信用させたうえ、取引の契約書を書いてくれと申向けて、同人に紙片と万年筆を渡し、同人が右契約書を書こうとしている隙を狙つて、同家縁側から上記掛矢を取り出し、殺意を以てこれで同人の頭部を殴打し、更に手及び手近にあつた繩(昭和三五年裁領第三〇号の一一)で同人の頸を締め、よつて即時同所において右頸部絞搾により同人を窒息死させ、更らに被告人岩崎において、直ちに同家裏庭の中央やや南寄りにスコツプで穴を掘り、右名村の死体をその中に埋めて遺棄したが、同人が用心して取引代金を持参していなかつたので、これを強取する目的を遂げなかつた、

ものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

法律を適用すると、被告人らの判示所為中、金品を強取する目的で和田五郎、藤田繁郎、松近喜久馬、名村五三六の四名を殺害したうえ、右のうち和田及び松近から金品を強取した所為は、右四名のそれぞれにつき各刑法第二四〇条後段、第六〇条に、右和田ら四名の死体を庭に埋めた所為は各同法第一九〇条、第六〇条に該当するところ、以上は同法第四五条前段の併合罪であるから、同法第一〇条により各被告人に対し、最も犯情の重い判示第一の強盗殺人罪につき、所定刑中無期懲役を選択したうえ、同法第四六条第二項により他の刑を科しないことにし、被告人両名を各無期懲役に処し、訴訟費用は、刑事訴訟法第一八一条第一項但書に従い、被告人両名にこれを負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件犯行は、単に利己的な金銭欲のみから容易く四人の生命を奪つたものであり、当時被害者達は、或いは一家の支柱であり、或いは前途ある青年であつた。従つて、本件犯行のために被害者の遺家族達が蒙つた精神的、物質的な損害は、犯行当時の世情、敗戦直後のきびしい生活難の時代と併せ考え、全く想像に余りあり、その悲嘆、激憤の情、筆舌に尽し難いものであつたと考えられる。殊にその犯行は、いずれも白昼、被告人らの自宅へ被害者を誘い込んでこれを惨殺し、その死体を自宅裏庭へ埋めたもので、その行為たるや、実に天、人共に許し難い大胆かつ残虐な行為であつたと云う外、云うべき術べを知らない。しかも被告人らが犯行にあたつて予め周到な計画を立てていたこと、常人の正視し得ないような無残な犯罪を一〇箇月程の短期間内に重ねて行い、その間被告人らの態度には自らの犯行を悔い或は嫌悪してこれを繰返すまいと努めたような様子すら殆んど認められなかつたことも本犯罪の著しい特徴と云える。なるほど犯行当時は終戦後間もない頃のこととて、生活面における窮乏が殊の外甚しく、土木建築業や左官としての経験、技術しか有しない被告人岩崎が、そのような社会情勢の下で困窮したことや、それに基く被告人らの焦燥、不安の念の一通りでなかつたこと、又当時の社会の混乱や、道義観念の著しい低下が、被告人らの道義感覚や常識を著しく動揺させたこと等、想像に難くはない。しかし本件犯罪の重大さや、一般国民がからくも当時の窮乏に堪え、あらゆる辛酸を嘗めていたことを想起すれば右のような事情が左程被告人らの責任を軽くするものとは考えられない。

以上のように、本件犯罪自体は極めて兇悪非道な、類例の少い犯行であり、その直接の被害が深刻であつたばかりでなく、犯行当時の混乱した世相の下において、人命に対する軽視を露骨に示し、人間性に対する信頼の念を根本から破壊した事案として、社会一般に与えた衝撃も甚大であつたことは明らかである。従つて仮に通常の事件におけると同様、或いは捜査官憲によるいわゆる全国綜合指名手配がもつと早期になされ、犯行後数箇月或いは数年以内に被告人らが逮捕され、起訴されていたとすれば当然極刑に処せられたであろうことは想像に難くない。

しかし、一方、本件各犯行は昭和二一年七月から翌二二年四月までの間に敢行されたもので、最後の犯行から被告人らが逮捕された昭和三四年八月までの間に一二年余りの歳月を経過しており、この点もまた他に殆んど類例を見ないところである。しかもかく歳月を経過する間に、量刑上考慮すべき幾多の事情の生じて来ていることは、本件量刑に当り重視しなければならないものと考えるから以下この点につき考察を加えよう。

前記証拠によると、被告人両名は、第三回目の名村五三六に対する犯行の直後の発覚を恐れて住道町の住居から逃走し、東北地方を転々とした後、昭和二二年七月に上京して、当初は東京都文京区駕籠町に住み、日雇人夫や手内職をしていたが、昭和二四年頃から屑物回収業に転じ、以後逮捕に至るまで約一〇年間この仕事を続けて次第に得意先もふえ、その間昭和二六年春頃同区小石川町の通称バタ屋部落に移り、昭和二九年頃更にその近くの防空壕跡の住居に移つたのであるが、上京後しばらくしてから被告人両名は、本件犯罪に対する悔悟の念に駆られ、手製の仏壇を自宅に設け毎朝晩被害者達の冥福を祈ることに勉め、後には日蓮宗に入信さえした。そうして上記バタ屋部落及び防空壕内においては被告人岩崎は世話役の地位にあり、仕事のかたわら同部落居住者等の福利厚生のために種々努力もし、又近隣の者達に対しても、殊の外親身の世話を尽していたことが認められる。すなわち、被告人両名は本件犯行を悔い、逮捕に至るまでの間一〇年以上にわたり被害者の冥福を祈つて来たものであり、その間における被告人らの生活態度も右のような心境にふさわしいものであつたから、被告人らが東京で逮捕された時には、その平素を知る近隣の者は、ひとしく意外の感に打たれた程で、又かかる改悛懺悔の情の顕著なことは当公判廷における被告人両名の供述等からも十分これを窺い知ることができるのである。従つてこれらの点よりすれば、被告人両名は、現在では社会人として恐らく普通人以上に道義に基き規範に適つた生活をなし得るだけの心構えと能力とを兼ね具えるに至つたものと考えられる。尤も、本件のように、社会に与えた影響の点でも、反道義性の点でも、特に重大な、例外的な犯行については、事後において犯人の改悛の情がいかに顕著であり、又これ以後罪を犯さないことはもとより、社会人としても立派に生活して行くことが十分期待できる場合であつても、道義の尊厳を明らかにし、社会秩序を維持する見地から、その犯人に対し、なお極刑を以て臨まなければならない場合もなしとしないであろう。しかし、本件においては、上記の如く、犯行後逮捕までに既に一二年余の歳月を経ているという厳然たる事実を看過するわけにいかない。このことは、もとより本件犯罪内容の重大さ異常さよりして、限度があるとはいえ、本件犯罪の社会に与えた衝撃を或程度減退せしめ、又上記の如き被告人らの悔悟と相まつて、被告人らに対する被害者を含めた社会の、被害ないし応報感情の幾分かを、和らげ得たものと考えられる。もちろん犯行に対する純粋に道徳的な意味での非難は、その性質上もとより時間の経過によつて減退するものとは云えないが、法は、純粋な道徳そのものの実現を目的とするものではなく、社会秩序、或いは道徳の或る社会的な水準を維持することを使命とし、そのために必要な限度で反道徳的行為に制裁を加えるものに過ぎないから、時間の経過は、かかる必要性を或程度は減退させ、従つてそのことは、刑の量定にあたつても十分考慮されなければならない筈である。

更に、本事案においては、最後の犯行のあつた昭和二二年から被告人らが逮捕された昭和三四年までの間に、わが国の社会状勢はかつてない程急激な変化を遂げ、敗戦直後の甚しい混乱、窮乏、人心の虚脱、荒廃の状態から急速に脱却し、今日に見る程度の安定、繁栄、充実の域にまで達したのであり、その一二年余の間における人心の改まり方、人権尊重思想への躍進もこれに応じ極めて速やかであつたこと、従つて右の時日の経過は過去の歴史における一二年余の経過と、そのもたらした変化の速度、規模、実質において比ぶべくもなく甚しいものであつたことにも留意すべきである。

更に又、右の時日の経過は、公訴時効制度との関係においても十分考慮される必要がある。すなわち、強盗殺人罪に対する公訴時効期間は刑事訴訟法第二五〇条により一五年と定められており、犯行後この期間を経過しておれば、被告人らを処罰することは最早法律上不可能となつた筈である。犯行後一二年余で公訴が提起された本件の場合、この点は、公訴時効制度の根拠が実体法上の可罰性の減少にあると考えるならば当然考慮されなければならないわけであり、仮に右制度が証拠の散逸等の訴訟法的な面の顧慮に基くものとしても、右の如く一五年経過した場合には最早処罰できなくなることとの均衡の意味でやはり考慮されなければならない。尤も、犯行後長年月逃走していたがために刑罰が軽くなるということは、いわゆる「逃げ得」を認め、正義に反するような感を与えないでもないが、右のような公訴時効制度の趣旨ないし存在に照らし、又本件の如く犯行後一二年余も経過して犯人の逮捕を見るような事例が極めて稀であることも併せ考えれば、むしろそのような時日の流れをことさら無視することの方がより不当であると云える。捜査検察機関による逮捕や起訴の遅延の責任が、全て被告人らに転嫁されることは何としても許さるべきではない。

なおその上、本件の如く、特に犯人を極刑に処すべきか否かを問題とする場合には、その犯罪の内容ばかりでなく、その犯罪による社会秩序の無視蹂りんに対して、社会に緊迫した危機感があり、社会が自己防衛のために極刑を以てその犯罪を否定しなければならないような痛切な要求を現に有しているかどうかをも十分に考慮する必要がある。この点でも、上記の時日の経過は、このような危機感が或程度薄らぐことを可能にしたものと考えられるのである。

その他、被告人らが既に老境に入りつつあることもまた、刑事訴訟法第四八二条第二号の法意より類推して本件の量刑につき考慮さるべき点であり、又被告人らが一二年余りの間捜査官憲の目を避けつつ半ば自由を失つた生活を余儀なく続けて来たことも、その罪を僅かながらでも償うに足る事情であると考えられる。

果して以上のとおりだとすれば、国家は本件の如き被告人らにすら、なお極刑をもつて臨まなければ、現在における公安の維持ができないものとするのであらうか。それ程我国現在の国家は微弱卑小なものであり、文化国家の実があがらないものであらうか。更らにそれは余りにも遺家族の寛恕に甘え過ぎるものとし非難さるべきものであらうか。今や被告人らは世間からも、一部言論機関からも等しく見離され、裁判前において既に極悪非道の鬼夫婦として評価批判されていることは前記の証拠及び証人渡辺寅一、同渡辺つぎ子の第四回公判における供述調書等によりこれを窺知するに難くはない。被告人らを庇護する者こそ全く暁天の星と云えよう。なるほど被告人らには最もきびしい非難が相当であり、極めて峻厳な刑罰こそ望ましいものであることには疑いがない。しかし人の生命は神聖にして生存の権利はできる限りこれを尊重しなければならない。人命に対する真実の保護はできる限りこれを尊重することにより確立せらるべきであることを知り、法は全ての時、所において天恵の至宝としての人命を語らねばならない。

以上の如く本件犯罪が兇悪無残なものであることはここに改めて繰返すまでもなく、又被害者の家族の或る者は今日もなお恵まれぬ生活を送つている状態にあつて、この犯罪の残した傷痕は深く且つ大きく、心より同情の念を禁じ得ないものではあるが、上記縷述のような諸般の点を慎重考慮すると、被告人らに死刑の極刑を科してその生命を奪うよりは、なお少き余命を全うせしめ、今後も永く被害者らの冥福を祈り、贖罪の生活を続けしめる方が法の趣旨にも適い相当の処置であると考えられる。よつて本件犯罪の重大さに鑑み被告人両名を各無期懲役に処する相当と認める。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 西尾貢一 萩原寿雄 加茂紀久男)

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